ビリギャル は親が偉かった

今回はビリギャルのモデル、小林さやかさんが、自著伝を出版されるということが話題になっていたので、そのことについて触れてみたいと思います。
ビリギャルの映画を見て思ったことは、本人の頑張りと素晴らしい指導者に出会えたことももちろんですが、あれは親が偉かった。わが子の可能性を信じて支えてあげれることは、実際の話、できるようでなかなかできないのだと思います。

こういう逆境をはね返す経験をもった人が情報を発信して、多くの受験生が「よし、自分もがんばろう」と奮い立つとしたら、本当に素晴らしいことだと思います。

何年も受験生を送り出していると、ビリギャルほど劇的ではないにせよ、厳しいところから合格していった生徒を何人もみてきました。そういう生徒に共通する点は「自分を信じて死ぬ気でがんばった」ということかと思います。これは間違いのないことです。

本当にがんばった子が「先生、合格しました」と報告に来てくれるのは、教師冥利に尽きるというか、この仕事をやってきて本当によかったなと思う瞬間でもあります。何年たっってもそれはかわることはありません。


勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。

それはそれでいいのですが、でも中には不合格の子もいるわけです。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。

この言葉通り、「あっ、この子は厳しいな。落ちるだろうな。」というのはだいたいわかります。不合格には不合格になる理由があるものです。

その理由が本人の努力不足によるものなのか、たまたま本番の試験が不調だったのか、勉強の仕方が悪かったのか、いろいろあるかと思います。

努力不足だった場合、試験が不調だった場合、勉強の仕方が悪かった場合は、だいたい本人にもその自覚があるものです。
つまり、不合格という事実を努力不足といった理由で、受け入れることができるわけです。

問題は、そうではなくて、不合格の理由が受ける学校に対する本人の能力不足による場合です。
これは受け入れるのが、本当に難しい。
ごまかすことはできても、ほんとうの意味でかける言葉がないのです。

実際にはいろいろな理由が複雑にからみあうので、能力不足をぼやかすことはできますが、本人の中には、一生しこりとなって残るのかもしれません。
能力不足という事実を受け入れることは、一歩間違えれば自己否定につながるわけですから。
あの学校には行けなかったというコンプレックスを背負うことになります。


ただのがんばりではなく、「がんばりとおす」が大事

では、むずかしい学校はチャレンジしなければよかったのか、というとそれは違います。
ビリギャルのようにほぼ不可能な状況から、合格をかちとった経験は本人を大きく成長させてくれるのですから。
ビリギャルが多くの人の共感を得ているのは、合格したからではなく、ありえないような目標でも、ひたむきに努力し続けることができたという点にあります。

見方をかえれば、たとえ不合格だったとしても、がんばりとおした経験は人として本人を大きく成長させるものです。ただのがんばりではなく、「がんばりとおす」が大事です。そこまでやってはじめて、能力不足という事実さえ乗り越えることができるのだと思います。

親の立場であれば、わが子が合格したとき、ともによろこびを分かちあえます。私にも親子で抱き合って泣いて喜んだ経験があります。でも、努力して努力してどうしようもなく不合格だったとしたらこう声をかけてあげてください。
「君が本当にがんばったのは私が一番良く知っているよ」と。

年齢を重ねていけば、人生は何度でもやり直しがきくことがわかってきます。ですが、十代の若者に一発勝負の入試でそれを諭しても、まず言葉の意味を理解してくれないのだと思います。

ここまで話してきて、なんだか不合格になった時を前提のような話になっていますが、毎年毎年、受験生を送り出している身とすれば、受験はそんなに甘くはありません。合否がはっきりする受験というものは、そこまで腹をくくってのぞむものだということです。

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